円谷黄金時代の幕開けと空前の怪獣ブーム到来

円谷黄金時代、怪獣ブーム到来のトリビア的円谷のキーワード

円谷の黄金時代の幕開けのキーワード

ウルトラQの視聴率は裏番組をぶっとばす驚異的34.4%たたき出した円谷
ウルトラQの成功にまけてたまるかと追従参入したテレビ・映画界・・・ここに大怪獣ブーム到来。
円谷といったら怪獣・・・差し出されたイメージ
うなぎのぼりとなったウルトラQの視聴率・・・そしてあのウルトラマンが

怪獣ブーム最頂点・・・視聴者の絶大の支持を受けた円谷

英二率いる円谷プロは、テレビ局のTBSにおいて、「アンバランス」という番組の製作を開始した。 「自然界のバランスがもし狂ったら・・・」というテーマのこの番組の中、若いスタッフたちはユニークなシナリオを次々と書いていった。 しかしながら、これはテレビ局の方針で大幅に路線変更された。

TBSプロデューサーは、「円谷といえば怪獣、怪獣を中心としたドラマでやって欲しい。」と意向を示した。 東宝の怪獣ものから脱却したかった英二は不満であったが、最初のテレビ番組である以上、これに従わないわけにはいかなかった。

タイトルは、東京オリンピックの「ウルトラC」から取って「ウルトラQ」となった。 英二は慎重に番組を製作し、テレビ放送が始まる期日までに全29話を完成させた。

初めての特撮テレビ番組、「ウルトラQ」は、最初TBSの幹部からはあまり評判が良くなかった。 第1話「ゴメスを倒せ!」は、試写会が終わった後、「怪獣はもう映画で飽きているのではないか」、「映画と比べて特撮がチャチだ」、といった不安材料だけが幹部らからもらされた。 これを聞いた英二はやはり心配になった。

ウルトラQが失敗したら、無理をして独立した事が全て失敗になり、大恥をかいてしまう・・・。 円谷プロの命運が、すべてこの番組にかかっている重責が英二をより不安にさせた。

昭和41年1月2日、遂に放送開始の日がやってきた。英二は朝から不安で、たばこを吸いながらあちこち歩き回って過ごした。正月気分とはほど遠い、全く落ち着かない、長い一日だった。

だが、それは全くの杞憂だった。 日本中の子供たちは、昼間から期待に胸をふくらませ、夜7時がくるのを、怪獣が遂に我が家にやってくる瞬間を、待ち続けていたのである。

運命の時は訪れた。

午後7時、不気味にうねる画面はやがてタイトルである「ウルトラQ」の文字に変わっていく。 子供たちはもうこの時点で違う世界に入っていった。

第1話「ゴメスを倒せ」は、東宝映画張りの大怪獣対決の作品である。 子供たちのコンセプトは、「映画でしか見られなかった怪獣が、毎週テレビでも見られるようになる。」であった。 この画期的な新番組が受けないわけはなかった。

ウルトラQの視聴率は、裏番組を圧倒的に抜いて34.4%というものであった。英二はほっと胸をなで下ろした。

また、怪獣が遂にテレビに進出したこの頃、怪獣映画を巡って、政界をも動かす事態が発生していた。 怪獣映画が海外でも大人気であることに政府が目を付け、日本の特撮映画の製作に対して、政府が助成金を出すことになったのである。 当時は1ドル360円、怪獣映画は貴重な外貨獲得の手段と判断されたのだった。 これにより、元祖の東宝は勿論、前年からガメラシリーズの製作を開始した大映や、まだ怪獣映画の作品がない松竹や日活まで、一斉に怪獣映画の製作を開始した。また、「ウルトラQ」の成功を目にした他のテレビ局も、同様の番組の製作に入った。これが世に言う「怪獣ブーム」である。

かつては1年に3、4回しか映画館で見ることが出来なかった怪獣映画は、今や毎週テレビで放送され、そして、どこの映画館に行っても怪獣映画は上映されている。それまではバケモノ扱いされ、幽霊や妖怪の様に思われていた怪獣は、人形などが次々と発売されて子供たちのアイドルとなった。

ところが、東宝や円谷プロ以外の各社から製作されている番組の特撮スタッフも、かつては英二の弟子であったり、英二といっしょに仕事をした人物ばかりであった。従ってこの怪獣ブームも実は、全く英二を中心とした英二の独り舞台であったのである。

「ウルトラQ」は毎回凝りに凝ったストーリーで視聴者を飽きさせることなく、視聴率はうなぎ登りとなった。

この間、円谷プロでは次のドラマ、「ウルトラマン」の製作に入っていた。

ウルトラQが終了後、「ウルトラマン」が開始される前には「ウルトラマン前夜祭」が放映された。これは、ウルトラマンに登場する怪獣や科学特捜隊などを、舞台から紹介する番組であった。 登場する俳優やウルトラマンの主題歌が次々と紹介された最後、科学特捜隊・隊長のムラマツが会場から「円谷さん、出てきて下さいよ!」と英二を呼ぶ。 会場を埋め尽くした子供たちの、満場の拍手を浴びて英二は舞台に登場するのである。

これこそは怪獣ブームの最頂点であり、当時の英二がいかに視聴者に支持されていたかを感じさせる一場面であった。

ウルトラシリーズの中で最高視聴率は満田監督が手がけたウルトラマン第37話「小さな英雄」である。

満田さんの話では視聴率42・8%で、すさまじいものだが、「当時は今のようにビデオなどが時代ではないから、毎週日曜の午後7時半以降は大変だった。

日曜日に家族で出かける家庭では、道路が渋滞でウルトラマンが見れなかったと子供が泣き、どんな話だったのかと円谷プロに電話がいっぱいかかってきたものだ。」というわけで、私たちの世代には日曜7時はもはや聖域であり、必ずテレビの前に座っていなければならなかった。

こうなると社会現象と言うより宗教みたいなものだが、それほどの人気があったのである。

 

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