円谷ウルトラファンサイト・円谷英二のゴジラよさらば、ゴジラ〜 怪獣王と日本人がたどった半世紀

さらばゴジラ〜 怪獣王と日本人がたどった半世紀

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『さらばゴジラ〜 怪獣王と日本人がたどった半世紀 〜』

【オープニング】2004年夏、東宝第9スタジオ撮影風景

年末公開の映画『ゴジラ ファイナル ウォーズ』の作成。 その冒頭部分、夜の南極にゴジラが現れる場面の撮影。

ゴジラシリーズ最後となる映画の、最初のシーン。 ゴジラの着ぐるみがセットに運び込まれ、スタッフの緊張が次第に高まっていく。 スーツアクターがゴジラの中に入る。

着ぐるみは、アクターの体型に合わせてぴったりと作ってあるため、装着は2〜3人がかりで行う。 「スーツアクターがゴジラに入る時、まるで魂がゴジラに入っていく様な不思議な光景だ。」 着ぐるみを使った撮影は50年前から変わっていない。

「着ぐるみに血が通い、ゴジラが動き出す。 監督の《本番》の声で緊張はピークに達する。 最後のゴジラの撮影が始まった・・・」

『誕生から50年。なぜゴジラは時代のヒーローであり続けたのか。なぜ今、終わりを迎えるのか。怪獣王との半世紀を綴る。』

【初回ゴジラの作成会議の写真(当時のスタッフが写っていて、その中に円谷英二氏、本多猪四郎氏が)を映しての話】

1954年南太平洋のビキニ環礁で水爆実験が行われ、水爆への恐怖がいっきに広まった。こうした状況が水爆大怪獣を生んだ。 巨大(ジャイアント)の頭文字をとって“G作品”と名付けられた。 テーマは水爆への恐怖。人間が作った文明から手ひどい復讐を受けるという筋書き。 特撮担当は円谷英二、監督は本多猪四郎、共に戦争からの帰還兵だった。 企画から公開までわずか半年で完成。 観客動員数960万人の快挙を成し遂げたという。

【当時チーフ助監督だった梶田興治さんの話】

50年前ゴジラが初上陸した場所は、撮影当時、交通手段が専ら船という陸の孤島、三重県石鏡(いじか)町。 山に道はなく、鳥羽から2時間もかけて船で撮影機材等を運ばなければならなかった。

なぜそこがゴジラの初上陸に選ばれたのか、それは本多監督の8年間の従軍体験に原点があると考えているという。 静かな光景の中に突如として暴力が押し入る。

戦争の不条理。 これこそが映画ゴジラのもうひとつのメッセージだと。

「本多さんは長い間、戦争の中で平和というものがいかに大事なものであるか。 その戦争の中で犠牲になるのが一番弱い大衆であるといつも言われていた。 その大衆のいるこの静かな町で、どんな暴れ方をするんだろうかということを出すことで、ゴジラの被害の大きさを訴えたかったのではないかと思う。」

初の怪獣映画は戸惑いの連続だったという。 「映画館に行ってみたら、ゴジラが国会議事堂を破壊するシーンでは、観客が《ゴジラ、よくやった。》と総立ちになって拍手していた。それがなぜなのか、よく分からなかった。普通だったら、せっかく復興した(戦争から)東京を壊されたのだから、怒りを発するはずなのに、それほど怒った感じでもなかった。何か、強いものに憧れを持っていたような・・・」

1932年にアメリカで製作された世界初の怪獣映画「キングコング」は、人形を少しずつ動かしながらコマ撮りする方法で撮影されていた。

【初回ゴジラのスーツアクター中島春雄さん】

円谷さんに「ゴジラを作るのにコマ撮りでやっていたら7年かかる。 それでは映画にならない。3ヶ月でやらなければならないから、お前にやってもらう。」と言われた。

それで、撮影期間を短縮するために、役者がぬいぐるみを着て演技する方法がとられた。 ゴムで作った着ぐるみは約200kgあり、思う様に動けなかったという。 その中島さんを支えたのが、顔と尻尾の動きのサポートをされた

【開米栄三さん】

造形の助手でもあった開米さんは、ゴジラの姿や形がどのように作られていったかを知っている一人。 ゴジラの頭の形はウイスキーの液体模様(ここで、ウイスキーに氷を入れたときにユラユラと対流が起こるイメージ映像) からの発想だった。そこから、頭部をきのこ雲の形にするというアイデアが生まれた。

水爆の申し子ということから、背中などには放射能の光のイメージがはめ込まれた。 これまで見たこともない生き物を作り出すため、顔は、いくつもの動物を重ねて作られた。 (何の動物を使ったかは言われませんでした。)最初は、あまりにも怖すぎた為、顔だけは何回も作り直されたという。

☆第1作目では東京を破壊したゴジラ。第2作目(ゴジラの逆襲)では大阪に現れ、第4作目」 (モスラ対ゴジラ)では名古屋が標的となった。 ゴジラは景気の波と共に現れ、好景気に沸く町を攻撃した。 日本の高度経済成長の大きなうねり以上の圧倒的な力をゴジラは持っていた。

【アメリカでの上映】

日本での公開から2年後の1956年、 『怪獣王ゴジラ(GODZILLA 〜KING OF THE MONSTERS〜)』として公開された。 ブロードウエイで評判になり、日本初のメジャー級配給網進出作品となった。 その後50か国で上映された。

【その後のゴジラ】

破壊の権化だったゴジラは第5作目(三大怪獣 地球最大の決戦)では、ほかの怪獣たちと力を合わせて、初めて人間のために闘った。 ゴジラは娯楽キャラクターとして、親しみやすい存在へと変わっていった。 教育問題が起こると、ゴジラにも子供ができたり(第8作目「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」)と、社会の変化に合わせて、ゴジラも性格や位置付けをうまく変化させながら生き続けてきた。

【プロデューサー冨山省吾さん】

客員動員数がピークの1/10以下の110万人にまで落ち込んだ去年、最後のゴジラを決断したという。 「娯楽と言う意味での社会環境が非常に多様化してきた。 家族で楽しむものと、子供たちが楽しむものとが大きく様変わりしてきた。 《やわらかくて、かわいらしくて、小さくて》という娯楽キャラの中で(・・が好まれる中で?)、《大きくて、強くて、怖くて、ゴツゴツして、黒くて》というゴジラが、人気をどこまで広げて来れたかと考えるとなかなか難しかった。」

【新作ゴジラの北村龍平監督】

今回のゴジラは、人間が怪獣の攻撃にひるむことなく立ち向かう姿を描く。 「いろんな怪獣が出てきて、昔のゴジラ映画のようにガンガン闘う様な。 そこに人間がどう係わっていくのか。そうなった時に、逃げたりするだけじゃないのではないか。 怪獣が出ました→大変です→闘いましょう、という話の図式ではないようなものを今回テーマにした。」

【東宝の特撮スタジオ】

☆特撮映画の大半がCGとなった今でも、着ぐるみとミニチュアを使った 昔ながらのやり方にこだわってきた。 CGでは決して出せない臨場感と緊張感が表現できるという。

☆クランクアップ日の撮影風景 着ぐるみにこだわり、その限界まで表現方法を追求して生きた50年だったという。

最終カットは、渾身の力を込めたゴジラの咆哮。 それに、「画面には決して映ることのないスタッフ全員の想いを込める」と。

☆現在のゴジラのスーツアクター喜多川務さん 「ゴジラとは、製作者みんなの想い。 ゴジラが好きだというみんなの想いで動いている。」

☆特撮用の大プール(ここで、プールでの撮影風景)

ゴジラが海から現れるシーン、帰って行くシーンなど、歴代のゴジラの名シーンは、すべてこのプールで撮影されてきた。 しかし、CGなど特殊技術の発達やスタジオの改造計画などでプールの取り壊しが決定。 今回の撮影が最後となる。 (ここで、解体される大プールの映像。少し離れた所から関係者の方々がひっそりと見ておられたのが印象的でした。) クランクアップ翌日、取り壊し。来年に新しいスタジオ建設予定とのこと。 《もう、あの迫力ある水シーンは見られないのですね・・・悲》

【エンディング】(数々のゴジラのラストシーンの映像)

「50年前に現れ、戦後の日本を襲ったゴジラ。 その後、半世紀に亘って日本の成長・停滞・喜び・悲しみと共に在った。」

「さらば、ゴジラ。時代のヒーローよ、永遠なれ。」

「映画ほど!ステキなものはない(ゴジラ50周年大特集)」 【初回ゴジラスタッフの苦労】

誰も見たこともない怪獣が主人公ということで、台本の文字だけではイメージを伝えることができなかった。随分と考えた末、絵コンテが作られた。200枚にも及ぶスケッチが描かれ、すべてのイメージが視覚化されていった。監督はこれに基づいてシーンごとの狙いを伝え、特撮スタッフのイメージは統一されていったとのこと。

【現場の戸惑い】

宝田明さんたち、ドラマの撮影現場では絵コンテが見せられていなかったため、撮影が始まってすぐ混乱したという。ゴジラが初めて現れるシーンで、「山のあの辺り(ゴジラが出てくるのは)」と漠然と伝えられたが、映像を見るとみんなの目線がバラバラで合っていなかった。 絵コンテは特殊撮影のスタッフ用で、最初にうちは出演者に見せられることはなかった。その後、特撮との対比が分からないということで出演者たちが希望し、配られたとのこと。宝田さん曰く「それで、随分と助かった。」 宝田さんが、ゴジラの着ぐるみを実際に見たのは撮影も半ばごろ、驚いて側にも寄れなかった・・・と。

【ゴジラをより恐ろしく撮るための撮影現場での工夫】

当初、円谷英二氏は、キングコングのように人形の動きを1コマずつ撮影する方法でゴジラを映像化しようと考えていたという。しかし、製作期間や予算面で断念。そこで考え出されたのが着ぐるみだった。そして、映像にリアリティを出すため、ゴジラが登場する東京を本物そっくりに再現しようとした。町並みの写真やビルの設計図を基に、1/25の精巧なミニチュアセットを作り上げた。建物の数は約500、道には電線まで張り巡らされていた。

【ゴジラの動き】

初代ゴジラのスーツアクター中島春雄氏は当時、ゴジラの動きをどう表現すればいいのか、ゴジラはどんな動きをするのかと考え、動物園に頻繁に通った。ゴジラの歩き方は、象の歩き方を参考にしたという。

【ゴジラの鳴き声】

もうひとつ問題だったのは、不気味で迫力満点のゴジラの鳴き声。カバが吠えてもライオンが吠えても、哺乳類のものは全くダメだった。結局、ゴジラのテーマの作曲者である伊福部昭氏のアイデアで、楽器のコントラバスで作ろうということになった。コントラバスから弦を1本はずし、松脂を塗り、手でしごく。それが加工されゴジラの声となったとのこと。その音は50年経った今でも、ゴジラの鳴き声のベースに生かされているという。

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